3か月の休校、自宅待機生活

 

こさいたろうの視点・論点 0140

2020/06/07

 

3か月の休校、自宅待機生活

 

いよいよ明日から、中二の息子の登校が再開となります。学校としては6月1日からの再開だったのですが、約半数ずつの生徒が一週間おきに投稿するという対応での再開のため、息子は明日からということになります。思えば2月29日から丸3か月、自宅での生活が続いたわけです。期間に多少の差はあれ、全国の子どもたちが同じ境遇だったということになります。予想だにしなかった出来事でした。

 

いろいろありました。なにせ、思春期になる中二男子が、ほぼずっと家にいるわけですから。朝起きない。勉強しない。パソコン、スマホ、テレビばかり見る。家の手伝いもなかなかしない。親は家とその周りが仕事場なので、否応なく目に入り、そしてどなる。どなられた息子は嫌な思いをし、どなった父も自己嫌悪。休校当初はそんな繰り返しでした。

 

もともと、宿題なし、無理に家で勉強しなくてよい、塾は行かせないで、という学校に通っているので、3月中は学校からの指示というか指導は全くなし。公立学校のことを聞いたりニュースを見たりすると、宿題どっさりとか、オンライン授業とか、やることを用意してくれるのがうらやましくも感じてしまうところもありました。

 

ふだん、学校を信じて息子の教育を全面的に任せているわけですが、学校に行かない(行けない)となると、英語や数学といった教科の学習機会はなくなります。中学生のこの時期に、何か月も家にいて、英語も数学も何も新しいことを教わらずに過ごさせていいのか、悩みました。

 

平時なら、伝えてもらわなくても以心伝心、子どもが毎日楽しみに学校に通う姿を見て、それだけで安心できるわけですが、この休校によって、その確認ができなくなってしまいました。そして、ある出来事をきっかけに、「何にもやらなくて大丈夫!」って言ってくれ、と学校に手紙を送りました。4月中旬のことでした。

 

中学の校長さんから返事がきました。正直、「なにもやらなくていい!」と明確には言ってくれませんでしたが、信じて学校に任せてくれていい、という趣旨の内容であり、これらの手紙のやりとりが意を決するきっかけになりました。多少学習の機会がなくなったり遅れたりしたって大丈夫だと、思えるようになりました。コロナ禍があって改めて、子どもの意欲を最も大切にする学校に通わせていることを強く認識することができました。

 

3か月、振り返ってみれば、息子の成長もあったように感じます。まわりから「また背が伸びたね~」と言われるような身体的成長もありますが、悩みながら、たまに幼いところに戻りつつも、自立・自律をしようとしている姿が見えるようになりました。起きた後ボケっとしていることはともかく、ほぼ必ず、起こされなくても6時半に起きることに成功しています。自分で決めた時間です。もしかすると、中2くらいじゃ当たり前じゃん、と言われてしまうかもしれませんが、我が家族としては革命的な出来事なのです。

 

それと、昨夏に作ると言って材料を買い、そのまま放置されていた「鍋置き棚」をこの期間に完成させました。いやいやなところもあるにせよ、畑も何度か手伝ってくれましたし、みそ工房づくり(DIY)も私の仲間と一緒にやりました。集落の子どもたちとたまの土日の午後屋外で遊び、友情を深めた様子です。勉強はほとんどしませんでしたが、振り返ってみれば、いろいろやっていたように思います。

 

僕は、「息子との最後の濃密な時間」を、神様から貰ったのではないかと感じています。コロナ禍がなければ、この時間はありませんでした。父のダメなところばかり似る我が息子の姿を日々目の当たりにして生活できること、その時はめんどくさいしイライラもするけれど、幸せなことと後からしみじみ感じます。

 

根拠なき推測ですが、おそらく学校が始まれば、これまでバネを縮めていた分、弾けるように成長していくことでしょう。もう、一緒に田畑に出ることはもしかしてないかもしれません。でも、この春の出来事を大切な思い出にできるよう、お天道様が計らってくれたように感じるのです。

 

息子は、明日から学校に通うこと、少し戸惑いながらも、楽しみな様子です。

 

父の備忘録。失礼いたしました。

 

 

農夫 こさいたろう(小斉太郎;元 港区議会議員)

 

こさいたろうの子育て日記 「ピカピカの一年生(6)」 政治家として(教育や保育の環境を自由に選べるという事)

こさいたろうの子育て日記 「ピカピカの一年生(6)」

政治家として(教育や保育の環境を自由に選べるという事)

 

僕は政治家として、「選べる教育」「選べる保育」を常に提唱してきました。

 

憲法・教育基本法・学校教育法・児童福祉法など、今の教育や保育の環境を規定する様々な法令があり、もちろん一朝一夕に実現させることは出来ませんが、人々が「行かせたい」と思う学校や幼稚園・保育園を選べる社会に、ひいては、人々が「作りたい」と思う学校などを自由に作り提供できる社会に変えていきたいと思っています。学校などを「作る自由」と「選ぶ自由」が必要だと思っています。

 

今の公立学校中心の制度のまま(役所が箸の上げ下げまで指示する制度のまま)では、多様な教育は生まれず、多様な人材は育ちません。国が決めた教育方針に問題点があれば、すべてにその影響が及んでしまいます。「一斉・画一」と言われる日本教育の弊害です。多様な教育スタイルがあれば、その中で多くの方が普遍的価値を認める教育内容は、自然と広く採用されていくはずです。もはや、役所に任せるべきものではないと思います。

 

地域の特性に応じて教育が行われる学校があってもいいし、ある理念に従って教育が行われる学校があってもいい、と思うのです。選ぶのは親であり、子どもであるべきです。今のところ大きな課題として取り上げられませんが、僕は、取り除かれるべき社会的規制と思っています。各家庭の経済環境で選択が出来なくなることは避けねばなりませんから、僕は、具体的政策として「バウチャー制度」が望ましいと考えています。税金の使い道を、教育を受ける主体者に委ねるという事です。選んだ学校などに、お金の代わりにバウチャーを渡すという制度です。このことによって、学校などは選ばれることになります。どんなことがあっても存続するという事にはなりません。選ばれる教育をする必要に迫られるわけです。

 

成熟した日本社会の中で、お上(おかみ)から与えられた教育内容で、均質な成人を育てることはすでに妥当性を失っています。多様な教育で、多様な能力を有した人材が、それぞれ連携して社会の発展を目指すことこそ、これからの日本社会に求められているものと確信します。おそらく、多くの方がそれに気づいているからこそ、比較的経済的に余裕のある都市部で、私立中学校に進学させるご家庭が増えているのではないでしょうか。

長くなるので、改めて、この問題については論じたいと思います。とにもかくにも、今回、僕自身が子どもの教育を「選ぶ」ことと致しました。理事長・校長の堀さんが仰るように、「子どもの村小学校」は「変わった学校」です。でも、僕は「一斉・画一」教育に収まらない学校と捉えています。「いろんな学校」があっていいと思うんです。一つの価値観で人々を、特に子どもを覆ってしまう事は決して豊かな社会を創り出さないし、はみ出たものを排除する暗い社会に繋がってしまうと思います。何より、その価値観に万が一誤りがあった時、全く修正が効かない社会になってしまうと思うのです。みんなが「選べる」社会をつくるためにも、今回の決断を活かしたいと、政治家・こさいたろう(小斉太郎)として密かに決意しているところです。

 

 

さまざまなご感想、受け止め方があると存じますが、是非とも僕たち家族の決断をご理解頂ければと念願しています。「変わった学校」については、今後も折を見てお伝えしたいと思っています。「変わっている」ことが「まずいこと」か、皆さんとともに考えていければと思っています。

 

また、こさいの拙い文章を補足するものとして、作家の高橋源一郎さんの取材記事があります。併せてお読み頂ければ、かなりイメージをつかんでいただけるものと思います。

http://bit.ly/Yr5Pqu(高橋源一郎の「南アルプス子どもの村小学校」訪問記:GQ JAPAN 2013/04号)

 

何卒今後ともよろしくお願い致します。

最後までお読み下さり、誠にありがとうございました。

ご意見やご感想もお気軽にお寄せ下さい。

 

こさいたろう(小斉太郎)